今回は、韓国の歴史を知るために、朝鮮の歴史をちょっと覗いてみよう。
檀君神話
天を納める神・桓因に桓雄という息子がいた。桓雄は地上界に意があり、三千の臣下を連れ、太白山頂上の神檀樹の下に降り“神市”という村を作った。桓雄は人々を教化し、地上はよく治まった。その頃、神市村に住む熊と虎が桓雄の所にやってきて、‘人間にして欲しい’と願った。そこで桓雄はヨモギ一束とニンニク20個を与え、「100日間洞窟の中で太陽を見ず、ヨモギとニンニクだけを食べながら生きるなら人間になれるだろう」と言った。短気な虎は何日もしないうちに人間になるのを諦めて洞窟の外に飛び出していったが、我慢強い熊は見事試練に打ち勝って、僅か21日で美しい人間の女性に生まれ変わった。女性になった熊女は子供が欲しくなり、毎日神檀樹に通ってお祈りを捧げた。この姿を見守っていた桓雄は、自分を秀麗な青年の姿に変え、熊女と婚姻をした。そして生まれたのが、地上最初の子供であり、韓国の始祖である“檀君”だ。檀君は、平壌に古朝鮮(AD2333)という国を築き、1500年間これを治めた。後に、檀君はアサダルという所に行き、山神となるが、その時の彼の年齢は1908歳だったと伝えられている。(「三国遺事」より)
日本の記紀に当たる二書に、「三国史記」と「三国遺事」がある。
「三国史記」は、1145年、中国の正史を意識して編まれた官撰史書
「三国遺事」は、1208年、僧・一然が綴った説話集的個人的著作
衛氏朝鮮
BC3世紀末の王のような存在を否王といい、その子が位を継いで準王と称した。BC 207年、漢が起こった後、中国から古朝鮮への避難民や亡命者たちが増えた。その中に、BC195年、千人あまりの部下を連れた衛満という者がいて、準王は「西方百里」の地を与え、これを保護した。にもかかわらず、翌年、衛満は準王を攻撃し滅ぼしてしまった。こうして、これ以降の朝鮮を「衛氏朝鮮」という。(金日成総合大学朝鮮史講座『朝鮮史概要』)
BC 140年、漢の武帝が即位し、衛氏朝鮮を攻撃し始めた。これが、最初の大規模な外圧である。
その後、 BC108年に滅ぼされ、植民地となり、漢四郡の設置となる。
朝鮮半島の歴史、それは一貫して外圧と抵抗の歴史だと言える と何を見ても書いてある。
当初、いくつかの種族が現在の中国東北・満州にまたがってあった。それが、蒙古の遊牧民の匈奴の活躍と中国の強大化に連れ、南下していった。稲作はBC4世紀頃から始められており、BC3世紀頃からは金属器も使用していた。原始共同体の時期を経て、「種族」の村落共同体に発展し、階級社会を形成、各種族が自己の拡大化を図って戦争を繰り返し、同盟が結ばれたり併呑されたりして、三国時代が出現することになる。
歴史の流れが一目でわかるよう、「朝鮮」(金達寿 岩波新書)の年表を拝借させていただきたい。
西暦_______0_____500_________1000________1500___________ 古朝鮮 衛氏朝鮮|漢四郡 313 | 688 935 1392 1910〜45 扶余族---------------------------------------------------| 高句麗族 37 高句麗 688 | 悒婁族--------------------------------------------------| 歳貊族 18 百済 660 | 統一新羅 高麗 李氏朝鮮 植民地 馬韓族 ----------------------------------------------| 辰韓族 57 新羅 --------------------------------------------------- 弁韓族 47 駕洛 562| | 700 渤海926 | -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 646 794 1188 1573 1868 縄文・弥生・古墳時代 大化の改新 平安 鎌倉・室町 江戸 明治大正 249 206 25 221 265 420 589 618 907 960 1127 1279 1368 1662 1912 |
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高句麗 半島北に位置する大国家。早くから中国文明に触れる。移動自由な狩猟民。 百済 半島南西に馬韓族を統一して出来た国家。耽羅国(済州島)これに属す。 新羅 半島南東。多種族の中で、朴氏・昔氏を中心に斯廬種族が構成され、土着的に発展。 駕洛(大伽耶) 百済と新羅の間の対馬側(任那) |
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三国時代 新羅が半島を統一するまでの期間をいう。この頃、中国は五胡十六国・南北朝の争乱期、
日本は大和王朝の建国期で、それぞれに自国のことで多忙であった。朝鮮半島は地理的
条件から,終始この二国からの侵略を受け、両国の盛衰によって動かされ歴史を刻んで
きたが、この三国時代は、朝鮮は朝鮮人同士でじっくりと相互に力を尽くし、鎬を削って
戦うことが出来た時代である。
6世紀末、隋は高句麗を攻撃する(薩水の大捷)が、高句麗の果敢不屈の抗戦により
隋は敗退、その敗戦から内乱が起こり隋は滅亡。それに続く唐も高句麗に遠征するも
失敗。唐は戦術を変え、新羅と連合して百済を落とし(白村江の戦い)、次いで高句麗を
南北から攻め、ついにこれを滅ぼした。その後、唐・新羅の連合国同志の対立が生まれる。
新羅は、各地で繰り広げられるパルチザン戦争に手を貸しながら、唐を朝鮮半島から追い
出し、三国時代に終わりを告げる。名将として、金ユシンの名を挙げておきたい。
統一新羅 それまで政治的にも種族的にも分裂していた朝鮮半島をを統一したことは、朝鮮民族の
形成のとって画期的な大事業であった。
757年、全国を九つの州に分け端末官吏を置き、中央(慶州)には多くの府を設置し、
中央集権の体制の強化を目指した。
「食邑制」:功績のあった者に土地と人口を与える。日本の「〜国○万石」のようなもの
被支配人民の奴隷化:戦争捕虜は新羅貴族たちの奴隷として分けられた
「骨品制」:新羅の古くからの社会体制。「骨」=「血」、「品」はそれによる身分地位
人々は生まれながらにしてその血統により身分の差があった。
第一骨:代々の国王となることが出来るのは、朴・昔・金の三氏のみ
韓族出身の新羅が朝鮮半島を統一してから、韓族の持つ言語・習俗が朝鮮を支配した。
唐を宗主国としてはいたが、今日残る朝鮮固有のものは、皆この時代に育ち成長した。
吏読(リトウ):漢字音による自国語の表記法。それまで読み書きは、漢文しかなかった。
渤海 高句麗の高級軍人として隋や唐と戦った大祚栄は、高句麗が滅ぼされてからも、唐に対する抵抗をやめず
旧高句麗の遺民を結集させて北方地域に震国を建設した。
後三国時代 王権争奪戦により、隷民となっていた農民の暴動が頻発。新羅は分裂していく。
「後百済」「後高句麗(泰封国 )」「新羅」
朝鮮半島は、農民の暴動・貴族・地方豪族の内での反目・権力争いの渦中に沈み、
「勇者の時代」は次第に消えていくことになる。
20005-07-02UP
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