もう一回、歴史にお付き合い頂きたい。そうしないと、先に進めない。
世界初の金属活字の鋳造が行われたのは、1234年、高麗の時代のこと、
グーテンベルグが活版印刷を発明する100年以上も前のことである。
高麗 太祖王建は旧貴族勢力と結び、これを臣僚の中核とし、隷民支配の上に立つ官人体制を成立
(935〜1392)
王朝を安定させるために、文治主義に転じる。
科挙(国家試験)制度の導入:試験は文科のみ。貴族階級でないと受験できない。
儒教の古典に対する深い理解、漢文の作文力に重きを置かれる。
武臣には、農民出身者でもなれるようにした。
(武臣蔑視の傾向が現れる)
前半は、国内の再統一・再編〜興隆期 ともいえるが、この民族の質の核を成すと思われる
奴婢・農民といった最下層民による反抗・反乱は絶えることなく繰り返された。
当初からあった遼、女真・金の侵入に続き、後半も北方大陸からの外圧が繰り返される。
1231年蒙古がやって来ると、京はたちまち落とされてしまう。蒙古は、貢ぎ物を取って
民政官を配置すると引き上げていった。が、王室一族と将軍催氏は江華島に逃げ込み、
本土の人民には抗戦を命じた。奴婢・農民は蒙古の再来襲を徹底防衛し抵抗。蒙古も一時は
撤退したが、1235、47、53、54年と来襲。54年のその様子は、次のように記されている。
「この年、蒙古兵に捕らえられた者、男女無慮20万6800、殺戮せられた者はその数を
知らない。蒙古の兵が通った州・郡はみな灰燼となった」 一方、王侯貴族は、蒙古が
海を渡って来られないのをよいことに、本土人民の苦闘をよそに、豪奢な生活を続けていた。
やがて狭い島の内で武臣と文臣の対立抗争が激化。その後、王は島を出て降伏。蒙古の
属国となり、元 と国号を改めた蒙古皇帝の女を娶って「一家」の関係になる。
元は高麗を基地として、日本侵攻を計画 。‘ 元冦’である。このため、高麗は「百姓は
みな、草の実樹の葉を食う」といわれるまで疲弊。貴族・官人は、例によって、王に賜田を
強制したりして農荘の拡大による自己の私的権力を高めることに努めていた。
元に於いて紅巾の賊が起こり、やがて明帝国が生まれると、元は明を討つため高麗に出兵を
要求してきた。高麗王朝は向元派と向明派とに分かれていた。李成桂は向元派の軍にしぶしぶ
加わったが、新興の明には勝てそうにもなく、また戦争を嫌う兵士の逃亡が続出。そこで逆に
本国に進軍して向元派を追放(威化島の回軍)、以降権力を掌握し王位に就き、高麗は滅びる。
儒者・鄭道伝らに推されて王位に就いた将軍・李成桂は、日本海賊の襲来・倭寇を打ち破って
高名を馳せた、あの李成桂である。
李氏朝鮮 1392年、国号を朝鮮と改め、都城を京城(漢城=現在のソウル)に移し、儒教・朱子学を
(〜1910) 国教とした。これによって、近世の朝鮮は大きく特徴づけられることになる。
家父長的名分主義、尚古的事大主義、繁文縟礼のみの形式主義、それに加え、狭量な排他主義
からくる同階級内での文武の差別、嫡庶子の徹底した差別、地方的差別感などがある社会から
後に士禍・党争が発生したのも必然といえる。
地方的差別 ずっと昔に反乱があったから、そこを反逆郷として差別し、差別するから反乱が起き
(抵抗しなければ、それこそ登用する値打ちがないバカだ)という悪循環
階級関係 両班:文武官:国家の政治権力を握る事が出来る貴族階級・官僚
事務や学問を担当する文官(東班)・軍事的任務を負う武官(西班)合わせて東西両班
中人:政府の技術官職、法律・医学・会計などを司る、下級官吏はこれに含まれる
常人:農民、商人、工匠
賤民:僧侶、奴婢、倡優、巫覡、皮工、白丁
両班でなければ人間に非ずという社会で、常人以下は常に虐げられていた。
法制的な階級層ではなく、社会慣習を通じて形成された階層。日韓合併により崩壊
文官は、科挙を突破したエリート達で、乱暴な言い方をすると、難しい漢字の読み書きが
できることだけが取り柄の人たちである。両班の中でも武官は蔑まれていたし、勇敢な武将は
いたが、概して武は不得意であり武の訓練もたいしてしていなかったようだ。
中国へ宛てた文書の中の文言には、「昔より、武は得意としておらず…」とある。
党争 1575年に人事権のポストを争い東人・西人の支配層に分かれたことに始まる党派の争い
(城内で党派の首領の住まいが 東方/西方に在ったため、東人・西人といった)
東人から南人・北人、 北人から大北・小北、 西人から老論・少論と枝分かれしていく
17〜8世紀の李朝政治史を蔽う長期かつ凄まじい政派間の権力闘争
李朝の有識者は、政治家・官僚・学者・芸術家・・・と分化しておらず、それら総てを
ひっくるめて「士」(文化人)として存在した。(日本の武士の「士」とは全く異なる)
こういう人たちが、寄って集って、天下国家を論じ、政権を中心として血みどろの抗争を
これでもかというほど続ける。朱子学のイデオロギーで武装し、大義名分を論ずることを
業とする人々には妥協が難しいのだ。 韓国人が論争好きだといわれるのは、この明けても
暮れても相手を言葉で攻撃をする“党派の争い”から来ているのだろう。しかしその論争は、
相手を蹴落とすためのモノであったから、全く生産的ではなかった。
17世紀初頭、北方から女真・野人が攻め入ってくる。1636年、公金・真の丁卯・丙子の胡乱、
その後、旱害・水害・悪疫・大飢饉…と続き、農民の反乱が各地で起こり、李朝の後期はただ
そういうことのみに奔命することになる。
19世紀に入り、イギリス・フランス・ロシア・アメリカと欧米近代列強が来航し、
「東方礼儀之国」をあげつらって長髯を撫していた両班官人は、仰天した。しかし、頼りとする
宗主国(清)はアヘン戦争により各国の半植民地となりはじめており、朝鮮は独力でこれらに
対さねばならず、強固な鎖国政策をとった。
これを打ち破ったのが、封建時代を脱し「富国強兵」の資本主義へ踏み出した日本と結んだ
‘江華条約’である。こうして日本が乗り込んでいくようになっても、朝鮮は“党争”を
続けていた。そして、清が進出し… 李朝の末に日清両国がついに衝突し戦争となり、朝鮮は
日本の植民地へと化していく。
李朝の間にはその長さに比例して様々なことが起こり、秀吉の進軍(朝鮮の名将・李舜臣)があったり、
清の属国となっていた時代があったり、その経緯や人物を見ていると、おもしろくて仕方がない。
この時代は、朝鮮・朝鮮人のことを少し理解するのに大変重要な時期である。
世界史の教科書で書かれるように簡単にまとめることは、とうてい出来ない。
日帝時代が、南北分裂を招いたと私たちは思っているが、朝鮮半島には38度線分割など含まない
信託統治という選択肢があったことだけは、記しておきたい。
2005-07-18 UP
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