Jan Garbarek, Ralph Towner “Vandrere”(1977)

 「すごく暗い人だと思った」。これが初めてデートをしたときの私に対するJunchanの印象だったらしい。この印象はどこから来たのだろうか。どうやら私がリクエストした音楽に原因があったようだ。別に「山崎はこ」をリクエストしたわけではないのだが……

 かつての新宿南口は、今とはまったく違っていて、開発が遅れていた地域だった。現在ルミネ前の大きな階段がある場所には、薄汚い石の階段があるだけだった。並べられている石がずれていて、むき出しの土からは雑草が顔を出し、一人通るのがやっとの階段。その階段を下りて少し歩くと「サムライ」というジャズ喫茶があった。今から考えると薄汚い、穴蔵のような場所だった。20年前に新宿にいくつか存在してたジャズ喫茶の一つである。そこが初めてのデートの場所だった。なんでそんな場所が最初なのか。実は当時等身大で生きると決心していた。こじゃれたレストランは身の丈に合わない。身の丈に合った場所で、ありのままの僕、というわけだ。

 今は存在しているかどうかは知らないが、かつてはクラッシック専門喫茶もあった。私が大学時代の一時期、週一程度通っていたクラッシック専門喫茶では、座席が一人座りになっていて、みんな話もせずにコーヒーを飲みながらじっと音に耳を傾けていた。ジャズ喫茶にはそんな店はなかった。酒も飲めればおしゃべりもする。音楽ジャンルによって聴き方が変わるのはおもしろい。もちろん私は変わらないが。

 初めてのデートのときにリクエストしたのは、当時すり切れるほど聴いていたヤン・ガルバレクとラルフ・タウナーの“Dis”というアルバムだった。どこにでもあるとは言い難いアルバムだが、「サムライ」にはちゃんとあった。

 ヤン・ガルバレクを最初に聴いたのは、1977年のキース・ジャレットのアルバム“My Song”だった。このアルバムで彼は、テナー・サックスとアルト・サックスをふいていたが、その演奏がとても印象的だった。今まで聴いたジャズのサックス奏者の音とはずいぶん違っていた。理由ははっきりしている。彼がノルウェーのジャズマンだからである。

 アメリカのジャズはやはりアメリカのにおいがする。どんなにおいかは表現できない。さらにアメリカの黒人のジャズと白人のジャズでは、またちがったにおいがする。たとえば、ジョン・コルトレーンとアート・ペッパーを聞き比べればわかる(と思う)。アート・ペッパーの音は、やはり「アメリカの」「白人の」音なのである。ヤン・ガルバレクの音は、アメリカのジャズにはない。アメリカのジャズにはない透明感のようなものがある。この透明感はケニー・Gも表現できない。

 そんなヤン・ガルバレクの演奏に魅力を感じて、何枚かのアルバムを手に入れた。その中には、きわめてオーソドックスな編成のアルバムが二枚ある。「ヤン・ガルバレク+ボボ・ステンセン・カルテット」の“Wichi-Tai-To”(1973)と“Dansere”(1975)である。

Jan Garbarek-Bobo Stensen Quartet
Jan Garbarek   Soprano, Tenor Saxophones

Bobo Stensen   Piano

Palle Danielsson  Double Bass

Jon Christensen  Dramus

 ECMはドイツのレーベルだが、スウェーデン出身のボボ・ステンセン以外すべてノルウェー出身であり、録音もオスロで行われているので、ヨーロッパのジャズというよりは北欧のジャズ、あるいはノルウェーのジャズといっていいものだ。彼らの演奏には、重苦しい情念的なものはあまりない。だからとって、薄っぺらではない。清涼感、透明感、そしてロマンを感じさせるすばらしい演奏であり、(当時は)若いジャズメンの熱気が伝わってくる。それにしても、北欧の小国ノルウェーからこんなすばらしいジャズが発信されているのを知って、少なからず驚いたものだ。

 さて、問題のアルバム“Dis”について、書かなければなるまい。

Jan Garbarek
Tenor and Soprano Saxophones, Wood Flute
Ralph Towner
12-Strings and Classical Guitars

 これはデュオのアルバムで、録音は1976年で場所はやはりオスロである。ラルフ・タウナーは、このアルバムを聴いてから私が好きになったギターリストであり、いずれピンで取り上げたい(私は別にECMの回し者ではありません)。

 デュオは音楽の世界では珍しいことではないし、ジャズでも珍しいことではない。とはいっても、純粋なデュオは、Side 1 の二曲目“Krusning”とSide 2 の二曲目“Yr”だけで、いずれもヤン・ガルバレクはソプラノ・サックスを、ラルフ・タウナーはクラッシック・ギターを使っている。Side 2 の一曲目“Skygger”はブラスが入っている。おもしろいのは、Side 1 の一曲目“Vandrere”と三曲目“Viddene”、Side 2 の三曲目のタイトル曲“Dis”には、ウインド・ハープが使われていることである。とくに“Dis”では、ウインド・ハープとヤン・ガルバレクの尺八のような音のするウッド・フルートだけの演奏で、どこか宗教的な雰囲気をもつ楽曲になっている。

 このレコードを買って初めて針を落としたとき衝撃を受けたのは、まさにこのウインド・ハープをバックにした二人の“Vandrere”の演奏だった。

 ウインド・ハープは、古代ギリシャの「風鳴琴」を参考にしてスヴェール・ラーセンというノルウェー人が一人で作った楽器だそうだ。読んで字のごとく風によって弦を振動させ、共鳴体によって拡声させるという構造になっているらしい。ウインド・ハープの音は、ライナー・ノーツによると、北海からの強い風が絶え間なく吹き続ける南ノルウェーの海岸で録音されたとのことである。

 “Vandrere”は、まずこのウインド・ハープの音からはじまる。風の音ではないが風の音である(何のことやらだが、聴いていただければ一発で理解していただけます)。その音を背景にまずヤン・ガルバレクのテナー・サックスが自然を高らかに歌い上げるように鳴り始め、ほどなくしてラルフ・タウナーの12弦ギターがやさしく入り込み、二人の美しい演奏が繰り広げられる。13分36秒の大作である。

 当時、この曲を暗い部屋で聴くのが好きだと、私はJunchanに話したらしい。そこから「暗い」という印象が生まれたようだ。ノリにいい音楽が好きなJunchanからすれば、たしかに、この“Vandrere”その対極に位置しているのは間違いはない。たぶん、「なんじゃ、これは」という感じだったのだろう。もちろんすぐに、私が「やんちゃ」で「脳天気」で「極楽とんぼ」で「子供っぽい」ことに、Junchanは気づくことになるのだが……。

 「暗い」という印象を受ける人は、たしかにいる。どんなに明るく振る舞っても、そう感じられてしまう人がいる。私の記憶に残ってる人は二人。一人は幼い日にいじめを体験した人物、もう一人は家庭に問題を抱えた人物だった。問題が解決するなら暗さはなくなるのだろうが、いじめの体験はかならずしもそうはいかない。解決するということがない。しかし、ひどいいじめを体験した過去をもっていても暗さを感じさせない人も私は知っている。その人は自分の体験を言葉で表現することができ、その時の状況や事情を冷静に振り返ることができる。おそらく、彼の心の中では「決着がついている」ということなのだろう。あるいは、悲しみや苦しみにもかかわらず、いや悲しみや苦しみをものともせず、彼なりの「生の肯定」に至ったということなのだろう。

 私はJunchan以外に「暗そう」と言われたことがない。ほんのたまに「こわそう」と言われることもあるが、だいたいは「やさしそう」だ。とくにJunchanといるときはそう言われる。しかし、私に「暗さ」が微塵もないかというとそうでもない。長い間生きていれば、それなりにいくつも重いものを背負う。悲しいことやつらいことにも出会う。重いものを重いものと感じるときには、心が沈む。だが私は、早い遅いは別に、蘇生することもできる。いろいろ起こるから人生はおもしろいのだ。これが、「極楽とんぼ」と呼ばれるゆえんなのだろう。


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