Mahavishnu Orchestra“Birds of Fire”(1973)

 「お宝鑑定団」が始まった頃、我が家に鑑定してもらえるものがあるかどうか考えた。子供の頃「切手集め」をやっていたことがあるが、たいしたコレクションでもないので高値はつきそうもない。画家の東郷青児が使っていたという大理石の「たばこ入れ」をある方からいただいて持っている。確かに東郷青児が使っていたものらしいが、「東郷青児」の痕跡はどこにもないので客観的な証明はできない。

 鑑定に出せるのはどうやらレコードくらいしかない。しかし、すり切れるほど聴いていたり、傷物であったりするので、これまた高値はつきそうもない。それでも、我が家にやってきた「マニアな」御仁が、めざとく見つけたシングル・レコードに10,000円の値をつけてほしがったことがある。クリームの「ホワイト・ルーム」である。もちろん手放す気などないので、依然として我が家にある。

B面は“Those were the days”大好きな一曲
まだみんな若い。クラプトンも若い。ジンジャー・ベイカーのドラムは新鮮だった

 ブリキのオモチャや怪獣の人形も持っていたが、生家の解体にともなって処分してしまった(つまり捨ててしまった)。まさか、びっくりするような高値がつくなんて想像もできなかった頃の話だ。残念なことをした。「スーパー・ジェッター」「鉄人28号」「8マン」「ゴジラ」や「ガメラ」もいたはずだ。ほかにもいろいろ持っていたのに。

 漫画も同じ運命だった。私は漫画っ子だったので、小さい頃(から)よく漫画を読んでいた。『少年マガジン』や『少年サンデー』が30円や40円の時代である。あの頃の漫画や『冒険王』の「おまけ」を残しておけば、かなりの金額で売れただろうが、そもそも「ものへの執着心」がまるでないので、これまたゴミになってしまった。

 とはいっても、単行本のような形態の漫画は残していたし、今でも残っている。結婚してからも増えていった。雑誌は捨てられるが、本という形をとったものは簡単には捨てられない。かなりの量があったが、すぐに小さな古本屋を開けるほど本がある我が家では、さすがに居場所がなくなっていった。「Book Off」ができたばかりの頃、だいぶ処分した。当時は大量の本が必要だったのだろう、それなりの金額で買い取ってくれた。『ゴルゴ13』やら『こち亀』やら『おいしんぼ』やら、今は誰かの手に渡っているはずだ。

 それでも居座り続けている漫画がある。その中に手塚治虫の漫画がある。手塚治虫の漫画は、ものによってはとんでもない値段がつくらしい。しかし、年代物は子供の頃から読んでいるので、もうぼろぼろだ。『ブッダ』や『陽だまりの樹』や『アドルフに告ぐ』や『キリヒト賛歌』は、まだ値がつくほど古くはないし、そもそも手放す気もない。

 『鉄腕アトム』はもちろん読んでいたし、アニメも当然見ていた。2003年4月にアトムは誕生したことになっていたが、結局誕生しなかった。アシモのようなロボットが作られたり顔に喜怒哀楽を表現するロボットが登場すると、すぐにアトムができそうだと思ってしまう。だが、残念ながらそうはなりそうにない。

 人間がもつ「心」と同じような「心」をもつロボットは、まだまだ不可能だ。AI(人工知能)の研究は人間の研究でもある。人間に関して解明できたことだけをAI化しようとしても、とんでもなくたいへんだ。さらに、「AIなんて原理的に不可能だ」と言い張る人もいる。しかし、そんな主張をする人の存在をものともせず、「ロボットSF」は作られ続けている。私も好きなジャンルなので、どんどんいいものを作ってもらいたい。とはいえ、『AI』という映画は気の毒な映画だった。主人公の少年も気の毒だったが、スピルバーグにとっても気の毒な映画だった。

 現在『ビッグコミックオリジナル』で「鉄腕アトム」が復活している。監修は手塚治虫の息子の手塚眞、漫画は「MONSTER」などで有名な浦沢直樹である。タイトルは「プルートウ」であるが、アトム・シリーズの「地上最強のロボット」を素材にしている。新しい「ロボットSF」として高い評価を与える人たちがいる。しかし、「こーこーろやーさーし、ラララ、かーがーくーのこー」と歌っていた私としては、違和感を禁じ得ない。

 単なるリメイク版ではないこともわかっているし、独特な浦沢ワールドが展開されていることもわかる。しかし、アトムはアトムではないし、ゲジヒトもゲジヒトではない。ウランやコバルトはまだ登場していないが、どんな子供の姿をして登場するのだろうか。「アトム」をベースにしてもかまわないがまったく新しいキャラクターの「ロボットSF」であってほしかったと思うのは、私だけだろうか。とはいっても、連載終了まで読み続けることだろう。村松誠の「ネコ表紙」はJunchanのコレクションになるし、『ビッグコミックオリジナル』は私の「半身浴の友」であり続けるからだ。

 『火の鳥』の子供の頃から読んでいたし、大人になってからも何度か読み返している。今年になってNHKでアニメ版を放送していた。何回か見たが、やはり違和感を感じ、こちらの方は見るのをやめてしまった。

 手塚作品のいいところの一つは、遊びがあるところだ。たかが漫画、されど漫画である。このことを手塚治虫自身が一番分かっていたと思う。生と死、宗教や政治や社会問題などの重いテーマであっても、その重さで読者を押しつぶさないのは、まさに漫画としての遊びがあるからだ。重いテーマだからといってきまじめに描いていたのでは、伝えたいものも伝えられない。

 私の知るかぎり、音楽の「火の鳥」には二つある。一つは、ストラビンスキーのバレー曲だ。以前に書いた「クラッシック修行時代」によく聞いていた。私にとって修行は修行でしかなかったためか、今ではほとんど聴かない。そして、もう一つが、今回のテーマのマハビシュヌ・オーケストラの「火の鳥」である。FMで初めて聞いて、その日のうちに買いに行った。

John McLaughin (Guitar)
Rick Laird (Bass)
Billy Vobham (Percussion)
Jerry Goodman (Violin)
Jan Hammer (Keyboards, Moog)

 この「火の鳥」はストラビンスキーものとは関係がない。ジョン・マクラグリンのオリジナルである。絶え間なく変化するリズムの中で、ジョン・マクラグリンのギターとジェリー・グッドマンのヴァイオリンが絡み合う。両者のアドリブもこれまた絶品である。思わず引きづり込まれるような演奏だ。

 ジョン・マクラグリンのギターもさることならがら、ジェリー・グッドマンのヴァイオリンは本当にすごい。ジャズ・フュージョン系のヴァイオリンの演奏は、これが初めての体験だった。ギターでは表現不可能な音楽空間を現出させ、私の魂を揺さぶり続けた。本当にすごい……。それから何年かたってまた別のヴァイオリンの音に出会うことになった。ジャン−リュック=ポンティである。これについてはまたふれる機会もあろう。

 この「火の鳥」というアルバムには、タイトル曲に勝るとも劣らないすばらしい曲がおさめられている。A面の二曲目(つまり「火の鳥」の次)には“Miles Beyond(Miles Davis)”(邦題「遙かなるマイルス」)という曲が入っている。「ビッチェズ・ブリュー」などで共演したマイルス・ディヴィスに対する、マクラグリンの尊敬の表れだろう。そのほか、曲名として目立っているのは、A面三曲目の“Celestail Terrestrail Commuters”(邦題「天界と下界を行き交う男」)、B面一曲目“One Word”(邦題「御言葉)、二曲目“Sanctuary”(邦題「聖域」)である。どれもすばらしい演奏であるが、どこか宗教的な臭いがある。考えてみれば、「火の鳥」もそうだ。

 宗教というのは、ある意味で、言葉で編まれた「物語」である。しかし、それは単なる「お話」とは違って、この「物語」の中で人間は生きることができたり、死ぬことができたりするほど強力だ。どんな「物語」の中で生きるかは、個人が決めればよい。宗教という「物語」の中で自分の生き方を見つけたり、初めて前向きに生きられるようになる人もいるし、反対にそんな「物語」の中では生きられないと考える人もいる。しかし、このような人も別の「物語」の中で生きているにすぎない。

 ジョン・マクラグリンは、新しい「物語」に出会った。そのため、彼は自らの生き方を変えてしまった。Sri Chinmoyという「グル」との出会いによって、彼はドラッグをやめ、酒も肉も断ち、菜食主義者になった。宗教という「物語」は、人間の生き方を変えるばかりではない。歴史的に明らかなように、この「物語」は音楽創造の原動力ともなってきた。ジョン・マクラグリンの場合もやはりそうである。

 彼は言っている。「人間は何も出来ないんだ。神がすべてを支配していらっしゃるんだから。ぼくが演奏しているという気持ちだと、うまくいかない。神がぼくにやらせていらっしゃると思うと、すごいことが出来てしまうんだ。これからは、神様に演奏してもらおうと思う」(アルバムの「ライナーノーツ」より)。

 彼のこの言葉に対して、何か言う必要があるだろうか。そんな必要はまったくない。彼は音楽創造の原動力について語っているだけであって、その原動力がどんなものであろうと、聴く側には関係がない。個人的な失恋の体験が、すばらしい「恋の歌」や「別れの歌」を生み出す原動力になったしても、その失恋の体験そのものは聴く側にはどうでもよいことなのと同じだ。すばらしい音楽が創造されること、ただこれだけが重要なことだ。

 ストラビンスキーの「火の鳥」(Firebird)とジョン・マクラグリンの「火の鳥」(Birds of Fire)。この二曲を合体させた「火の鳥」(Bird of Fire)がある。アレンジャーであり指揮者であるドン・セベスキーのアルバム“Giant Box”(1974)におさめられている。二つのまったく異質な曲がなんの違和感もなく合体していて、原曲を知らなければ、これで「一曲」である。このアルバムについては、いずれ別のテーマで取り上げたいと思う。


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