Ahane Ayano“Ookina Kaze”(1996)

 2004年ももう一月足らずで終わろうとしている。忘年会シーズン到来である。忘年会は、個人的に開くこともあれば誘われて行くこともある。たいていは同伴出席で、一人で行くことはほとんどない。一人で行くと「今日は奥様は?」と聞かれてしまう。時には「締め」でカラオケに行くことがある。以前相方は亜波根綾乃の「大きな風」をレパートリーにしていた。でも最近は歌うのを聴いたことがない。「どうして」と聞くと、「歌詞が若いから」。「いえいえ、まだまだ平気ですよ」と言いながらも、自分がDEENを熱唱する姿はありえないもんなーなんて思ったりもした。

 亜波根綾乃は、「ASAYAN」のオーディション出身である。オーディション番組といえば、昔は「スター誕生」があった。その後に「イカ天」という番組があった。厳密にはオーディションではなく、バンド対抗戦だったが、多くのバンドがプロ・デビューした。

 「イカ天」出身者はたくさんいる。「Begin」や「たま」はユニークだった。直球勝負のロック・バンド「ブランキー・ジェット・シティ」もいたし、タイトなドラムが印象的だった「ジッタ・リン・ジン」もいた。今は解散してしまった「フライング・キッズ」、池田貴族がいた「remote」、審査員にぼろくそにけなされていた「luna sea」も出ていた。

「たま/さんだる」(1990)
プラスチック・ケースではく、紙の箱に入っている。「たま」らしいといえば「たま」らしい
「Flying Kids/続いてゆくかな」(1990)
「幸せであるように」は、やっぱりいい曲だ
「行け行けじゅんちゃん」は笑える

 「ASAYAN」がオーディション番組になったのは、浅草キッドからナイナイに司会が変わり、小室哲哉が全盛期だった頃だ。我が家の夕食が9時という変な時間なので、いつも見ていた。

 印象に残っているのは、鈴木あみが選ばれることになるオーディションだった。彼女を見た瞬間、我が家では彼女が選ばれることになっていた。それだけ、抜きんでた「華」を持っていた。

 予想を裏切られこともある。後に「Chemistry」としてデビューすることになる男性デュオの選考の時だった。最終審査まで残った5人の中から2人選ばれることになった。その中で、絶対選ばれるだろうと我が家では見解が一致していた「彼」が、最初に落選した。堂珍と比べても歌唱力では劣るところはなかった。落選した「彼」に、プロデューサーが「今回のプロジェクトじゃなくても、君は必ずデビューできるから」と声をかけていた。その「彼」は、今は「Exile」の向かって右で歌っている。それがわかったとき、そりゃそうだろうと思ったものだ。

 「ASAYAN」出身者として有名なのは、何と言っても「モーニング娘。」だが、おじさんが許せるのは、5人の時代までかな……

 亜波根綾乃が多くのレコード会社からオファーを受けることになった「ASAYAN」オーディションで、彼女は石嶺聡子の「私がいる」を歌っていた。尾崎亜美が作詞・作曲した名曲だ。まだ15歳のこの少女は、石嶺聡子みたいになりたいという気持ちいっぱいに、名曲「私がいる」を歌い上げていた。私が好きな声質をもち、抜群の歌唱力と安定感を備えていた。彼女は、「私がいる」をまるで自分の歌であるかのように歌っていた。

「石嶺聡子/INNOCENT Satoko Vocal No.1」(1995)
「私がいる」だけではなく、「さよならは明日の始まり」とか素敵な曲がたくさん収録されている
 喜納晶吉の「花」もあたりまえのように入っている

 以前は、福岡出身者がやけに目立っていた時期があった。ミュージシャンと呼べなくもないタモリや、井上陽水や武田鉄矢、チャゲ&飛鳥、チェッカーズは、皆福岡出身だった。現在でもZARDの坂井泉水や浜崎あゆみがいるが、「福岡」が前面出ることはない。今は、「沖縄」がやけに目立っている。以前私が「沖縄」で知っているのは、喜納晶吉や「紫」ぐらいだった。その後「Begin」という感じだった。現在では、「沖縄」がたくさんいる。安室奈美恵、夏川りみ、モンゴル800、Orange Range、Da Pump、Kiroro。数え上げればきりがない。石嶺聡子も亜波根綾乃も「沖縄」出身だ。

 私の「沖縄」の記憶は、高校時代からはじまる。1972年アメリカ合衆国から沖縄が返還された。かなり自由度の高い授業をしていた高校に通っていた私に、「日本史」の授業で「沖縄を調べよ」という課題が与えられた。まさに「(当時の)今を学べ」というわけである。

 返還時、日本の総理大臣は佐藤栄作で、アメリカ大統領はニクソンだった。佐藤栄作は戦後の日本の政界の大物として君臨し、総理大臣を1964年から1972年までつとめた。1974年にはノーベル平和賞を受賞したが、当時も今も私にはその理由がわからない。

 ニクソンは、一時期愛読していた落合信彦によって「ケネディ暗殺」の黒幕と書かれることになる人物であり、ロバート・レッドフォード主演の『大統領の陰謀』で映画化された「ウォーター・ゲート事件」の主役でもある。

 17世紀前半の薩摩の島津藩による琉球王国への侵攻。明治政府による「琉球藩」の設置、廃藩置県の名の下での「琉球王国滅亡」と「沖縄県」の設置という、いわゆる「琉球処分」の歴史。そんなこんなを調べ上げて、授業で発表した。

 当時十分調べきれなかったのは「謝花昇(じゃはな のぼる)」という人物だった。マルコムXやチェ・ゲバラと並んで興味をそそられたが、手が回らなかった。

 大学時代に「謝花昇」という本が出版され、さっそく読んでみた。彼が生きていたのは、琉球王国が明治政府の武力的威圧のもとで「沖縄県」として日本に編入された後の時代である。その当時、沖縄県民には「参政権」すら与えられてはいなかった。日本に帰属しながら参政権すら与えられないのはどういうことだと考えるのは当然だ。謝花昇は、板垣退助らの協力で民権運動を推進したが、43歳で発狂して死ぬまで「沖縄」には参政権が与えられることはなかった。彼が死んでから8年後、やっと条件付き参政権が沖縄県民に与えられる。本土から遅れること22年である。

 謝花昇は、高校時代の私が調べてもよくわからない人物だったが、現在では「沖縄の自由民権運動の父」として大学センター試験にも登場するようになった。やはり時代の変化だろうか。ネットで検索したら、喜納晶吉&チャンプルーズが1992年の“In Love”というアルバムで「謝花昇」という歌を歌っていた。手元にないので、どんな歌かわからないが、喜納晶吉らしいといえば喜納晶吉らしい。

 交易で栄えた琉球王国、「琉球処分」、アメリカ統治、本土復帰という歴史をへてきた沖縄、基地問題をかかえる沖縄で、「独立論」が唱えられてもおかしくはない。事実、アメリカ統治下で本土復帰運動が行われている状況の中でさえも、「独立論」は唱えられていたし、現在でも唱えられている。沖縄より小さな国は世界にいくらでもある。そして、そもそも「方言」という枠ではくくれない独特の言語と独自な文化と伝統をそなえている。これは、アイヌの人々にも言える。日本が単一民族の国家なんていう主張をする人間がまだいるのは解せない。

 現在、どのくらいの沖縄の人々が独立を望んでいるかは知らない。意見は多様だろう。しかし、基地問題やそれに付随する諸問題、たとえば自然破壊といった問題から、日本国に帰属する意味を改めて問う人々がいてもおかしくはない。

 このような状況下で、沖縄出身者が音楽業界の中で中心的な地位を占め、食文化を中心とする琉球文化が本土に流入しているという現象は、とてもおもしろい。自然にそうなっているのだが、そこに「意志」がはたらいていると想像してみよう。独立がだめなら本土を琉球化してしまえという「意志」。

 もちろんこれは幻想にすぎないが、私たちは、もう自然に「ゴーヤ・チャンプルー」を食べているだけではなく、スーパーに行けば沖縄の食材が身近なものとして並んでいる。このような状況がもっと進めば、「独立派」も少しは留飲をを下げるかもしれない。日本によって植民地化され、日本語を語り日本名を名乗ることを強制された朝鮮半島の人々が、「ヨン様〜」と叫びながらペ・ヨンジュンに殺到する日本人の姿を見たら、少しは留飲を下げるだろうと想像できるのと同じだ。

 「私がいる」を熱唱した15歳の少女は、すぐにデビューが決まった。デビュー曲が「大きな風」である。彼女の声質にぴったりのいい曲である。こういう曲が彼女に合っている。次の年の1997年に「がんばれ 私!」、「ひこうき雲の空の下」と立て続けにシングルを発売した。「ひこうき雲の空の下」も彼女にぴったりの歌で、個人的には「大きな風」やこの「ひこうき雲の空の下」のような歌を歌い続けて欲しかった。

 ところが、ファーストアルバム“A-ray”が発売された後、突然私たちの視界から消えてしまった。アンテナを張り巡らせているわけではないし、「綾乃ちゃーん」と追っかけ回すわけでもないので、私たちが見るテレビ番組にでも出てもらわないと動静がわからない。我が家でもしばらく、どうしたんだろう、いい曲に巡り会っていないのかな、などと話していた。

亜波根綾乃「A-ray」(1997)
「大きな風」、「がんばれ 私!」、「ひこうき雲の空の下」も収められている

  今回彼女のことを書くに当たって調べてみると、「綾乃美術館」というファン・サイトを発見した。根強いファンがいることをうれしく思った。それによると、99年までアルバムを出していたようだし、私の知らないアニメの歌も歌っていたようだ。

 亜波根綾乃は、このままフェード・アウトするような歌手ではない。デビューしてからもう10年近くになるけれど、まだ23、4歳だ。いろいろ経験も積んできただろうから、スケールの大きな歌手になって、再び私たちの前に姿をあらわしてほしいものだ。「がんばれ 綾乃!」


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