Sting “Russians”(1985)

 ひとはなぜ歌うのだろう。誰かに対して何かを伝えるために歌っていることにはまちがいないだろう。その誰かは、神であったり恋人であったり仲間であったり、また自分自身である場合もある。「何か」は、「祈願」や「鎮魂」、「哀惜」であることもあれば、「喜び」だったり「元気」である場合もある。

 「社会」に対して「社会的・政治的メッセージ」を伝えるために歌が歌われる場合がある。ジョーン・バエズやジョン・レノンやボブ・ディランは、そんなメッセージを歌にのせて、われわれに届けてくれた。

 創生期の日本のフォークもそうだった。「フォークの神様」岡林信康は「友よ」を歌っていた。この歌は、私より少し上の世代にとって、明らかに政治闘争の歌だった。結局夜明けなんか来なかったし、今も来ていないけれど、「夜明けは近い」と歌うことが大事だった、そんな時代があった。今でも、いや今だからカラ元気を出して、歌ってみたい気がするが・・・むなしいかもしれない。

 きちんとしたメッセージをもった歌があるのに、その歌が何らかの理由で私達の耳に届かない場合もある。フォーク・クルセダースの「イムジン河」は、突然発売中止になった。子供にはその理由が理解できなかった。無理矢理二つに分けられた国の統一を願う歌がなぜ? 日本にも責任があるのになぜ? その理由が何となくわかったのは、高校に入って政治的な関心が強くなったときだった。

 とはいっても、私は「イムジン河」をもっている。ザ・フォーシュリークのものだ。いつどのようにして手に入れたのかは覚えていない。先日この曲についてJunchanと話していたら、「たしか放送禁止だった」と言っていた。私にもその記憶があった。フォークルの方は発売中止で、フォーシュリークの方は放送禁止になったということなのだろう、たぶん。

 ちなみに、放送禁止になったレコードを、もう一枚持っている。それはジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブールの“Je t'aime”だ。このレコードが放送禁止になった理由は、なぎらけんいちの「悲惨な戦い」と同様はっきりしている。もちろん、政治的理由ではない。

 「イムジン河」が発売中止・放送禁止になった当時は、現在とはずいぶん情勢がちがっていた。社会主義にはまだ夢がありそうな雰囲気だった。北朝鮮を支持する日本人・日本の政治家がまだたくさんいた。韓国は現在とはちがって軍事政権だった。雑誌『世界』に連載されていたT.K生の「韓国からの通信」は、民主化運動が弾圧されている状況を生々しく伝えていた。金大中を日本から拉致したとされたKCIAは、ナチスのゲシュタポと同じくらい恐ろしい存在に見えた。そのような韓国の状況を、東西冷戦構造と「ドミノ理論」というわかりやすい考え方が正当化していた。

 自衛隊についての歌もあった。最近話題の自衛隊を宣伝する歌ではもちろんない。自衛隊がプロモーション・ビデオを作るなんて、昔は考えられなかった。「曖昧な」地位に置かれ続けた自衛隊が、今や「国際貢献」の実質を担っている。「曖昧な」ことはよくないという話から、憲法改正へと議論は突き進む。「非武装中立」なんていう「夢物語」を語る人間は、「大人の論理」の前にもう黙りこむしかない。そんなことを言ったら「失笑」をかうだけだ。

 高田渡は「自衛隊に入ろう」と歌っていた。現在の微妙な情勢において決して放送されることのない歌だ。「自衛隊に入って花と散る」という歌詞を放送にのせる勇気(?)をもつ人間はいないだろう。

 泉谷しげるも自衛隊の歌を歌っていた。彼には、そもそもメッセージ性の強い曲が多い。「愛」だの「恋」だの「好き」だの「嫌い」だのっていうような歌がはやるようなったときでも、硬派のフォークシンガーとして、「おー脳!!」という梅毒の歌と並んで「国旗はためく下に」という歌を歌っていた。この曲には、自衛隊から引き合いが来たらしい。その自衛官(?)は歌詞の意味が理解できなかったようだ。これも、放送されそうにない一曲だ。泉谷しげるのことだから、コンサートでは歌っているかもしれない。

 そもそも政治色の強い歌を歌っていたシカゴがラブソングを歌うような時代になっても、社会的・政治的メッセージがつまった歌が、時として出現することがある。たとえば、1985年のUSA for Africa の“We Are The World”。ボブ・ディランがいやいや参加したとか、参加させられた、なんていう話を聞いたことがある。この歌は好きだし、「ものまね」をしようとして練習した歌でもある(さすがにシンディー・ローパーのパートは無理だった)。

 しかし、アメリカの対外政策についての情報が容易に入手可能になった現代において、ミュージシャンの気持ちがいかに純粋であろうとも、もし“USA for…”とやったら、「ちょっと勘弁してくれよ」という気になるだろう。とはいえ、何の役にも立たないより何かの役に立った方がいいにきまっている。曲のできがよくて、収益金が本当に大切なことに役立てられるのであれば、売り上げに協力することもやぶさかではない。

 Sting の “Russians”は、東西冷戦時代の曲だ。フルシチョフが出てきたり、レーガンが出てきたりする。“We share the same biology”とか“the Russians love their children too”なんていう少し楽天的な歌詞もあるが、要するに、イデオロギーなんて関係ない、みんな人間なんだから、そこにかけてみようと、重厚なロシア風(?)の演奏を背景にスティングは歌い上げる。ゴルバチョフが登場しても、冷戦構造が崩壊するなんて予想できなかった時代の歌だ。

 歌詞の内容に関係なく、Stingの今までの歌で、実はこの歌が一番好きだ。彼の声とオーケストラの演奏、アレンジ、どれもぴったりはまっているからだ。でも、冷戦時代が終わってしまったので、Stingはもうこの歌を歌わないだろう。The Police の時代のものを含め“Fragile”や“Every Breath You Take”といったいい曲はたくさんあるから、心配はない。「007」はかなり苦しい。「北のほうの人物」が登場した最新作はさすがに苦しすぎた。

 しかし、一番困るのは武器屋さんだ。世界が平和になったら、廃業しなければならない。だから、人の迷惑顧みず、いろいろなことをしなければならない。いろいろな「オモチャ」を作ったり売ったりしなければならない。

 歌詞の中に“Oppenheimer's deadly toy”という言葉が登場する。オッペンハイマーはいわずとしれた原子爆弾を完成した人物である。“Oppenheimer's deadly toy”とは原子爆弾のことだ。スティングは“How can I save my little boy from Oppenheimer's deadly toy”と歌っている。

 科学者がつくった恐ろしい「オモチャ」で遊んでいるのはたしかに政治家だから、科学者の名前を出して批判するのは間違っているだろうか。しかし、この「オモチャ」を考案したのは科学者であることにはかわりはない。「人類の進歩のために頑張ってます」とか「人間の知りたいという欲求を実現しているのです」とか「科学者は純粋な研究をしているだけで、それをどう使うのかを決めるのは私ではありません」とか言って、それで話がすむのだろうか。

 科学者は武器ばかりではなく、いろいろな「オモチャ」を作って私達を驚かせる。たとえば「人工子宮」。5,6年前に耳にしたが、生命の神秘を解明したいという「高尚な」目的でなされている研究らしい。

 それ自体を否定する根拠は見あたらない。神秘は神秘のまま放っておけとは言えない。しかし、人工子宮を使って生命の神秘が解明できたら、その時には実用段階に入っているであろうその人工子宮という「オモチャ」をどうするのだろうか。代理出産に取って代わることは疑いがない。

 フェミニストの中には、人工子宮の登場を歓迎する空気が一部にある。妊娠・出産が女性の権利拡大の妨げになってきたという認識があるからだ。しかし、このような見方には何か決定的なものが欠落していると思えてならない。人工子宮は核爆弾のように人間を殺さない。しかし、何か大事なものを粉々にしてしまいそうだ。

 人工子宮に代表されるように、新しい「オモチャ」はバイオテクノロジーをベースにしているものが多い。『ジュラシックパーク』で描かれていたように、「オモチャ」が反乱を起こして、「しっぺ返しをする」程度ならまだ救われる。新しい「オモチャ」で金儲けしようとした人間の何人かがその「オモチャ」で殺されるだけのことだ。しかし現実の世界では、「オモチャ」は、「私達」を「殺す」かもしれない。


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