Keith Jarrett “Koeln, January 24, 1975 Part I”(1975)

 昨年末、新聞にキース・ジャレットのコンサート情報がのっていた。キース・ジャレット、ゲーリー・ピーコック、ジャック・デジョネットという「スタンダード」をやるスタンダードなメンバーだ。このトリオでアルバムが出だしたのは、もう14、5年前になるだろうか。

 おもしろかったのは、SS席が完売しているのに安い席が売れ残っている様子だったことだ。キース・ジャレットのファンは確実にいるが、以前ほどではないということなのだろう。ジャズを聴く人口が減っているとはいっても、私に感化されたからかどうかわからないが、甥や姪は、今どきの若者らしく(?)椎名林檎を聴いたりしながら、キース・ジャレットをはじめビル・エヴァンスなんかもよく聴いている。

 甥や姪が感化してくれることもある。大学生の甥が貸してくれたケティル・ビヨルンスタとデヴィッド・ダーリングのデュオ“The River”と“Epigraphs”はすばらしかった。現代音楽というとジョン・ケイジや武満徹ぐらいしか思いつかない私には新鮮な驚きだった。でも、これはいわゆる現代音楽なのだろうか。疑問が残る。

 いずれにしても、ジャズを聴く人間が減っていることは確かなのだが、それは年齢の問題ではなく、ジャズにふれる機会が現在では圧倒的に少ないということなのだろう。もったいないことだ。音楽の世界が格段に広がるのに。


 音楽の聴く場合、だいたい三種類の態度がありそうな気がする。一つは「参加しているつもりタイプ」だ。ギターやピアノを弾くまねをしたり、歌詞を口ずさんだりしながら聴くのが、このタイプだ。二つ目は、「身をゆだねるタイプ」だ。聴き手が完全に受け身になって、音に身をゆだねる、あるいは音に身をひたす場合がこれだ。三つ目は、「中間タイプ」。おそらく、クラッシックを聴いているときには、このタイプになりがちだろう。

 トリオでやっているときは別として、ソロ演奏をしているキース・ジャレットは、完全に第二のタイプに属する。

 キース・ジャレットにまつわる「アマズッパイ」恋の物語はおくとして、ソロコンサートには何度か足を運んだことがある。舞台の上にグランドピアノが置かれ、連弾する時に使われるような横長のいすが設置されている。万雷の拍手で迎えられた彼は、静かにいすにすわり拍手が鳴りやむのをまつ。会場が静かになると、おもむろにピアノを弾き始める、というよりは、彼の指先から音が流れ始める。

 これからどんな演奏が始まるのか、聴衆にはまったくわからない。おそらくキース・ジャレットにもわからない。だから、聴衆には、流れてくる音楽に身をゆだねるしか、彼の演奏を聴く術はない。テーマらしきものが彼の指から流れ出ると、それが複雑に展開される。時には声を張り上げ、床を踏みならす。いすから立ち上がることもあればしゃがみ込むように演奏することもある。ニーチェ風に言えば、「彼は芸術家であることをやめて芸術になる」。

 ほぼ完全な即興演奏で行われる彼のソロコンサートには、当然出来不出来がある。オマケでもらえる彼のポートレート目当てに買った10枚組の「サンベア・コンサート」。1976年に日本各地で行われたソロ・コンサートを集めたこのアルバムには、その傾向が顕著に表れている。しかし、「ケルン・コンサート」はまったく安心して聴ける見事な演奏だ。年に何度も聴いているから、三桁近くの回数このアルバムを聴いたことになる。だから、彼の演奏は、私にとってもう即興演奏ではない。


 キース・ジャレットはジプシーの子だと聞いている。ユダヤ人には「約束の地」がある。しかし、ジプシーには帰るべき場所がない、故郷がない。だからジプシーは、自分たちの仲間がどこにでもいると思っているらしい。貧しさのためにやむなく犯罪にはしるジプシーに出会ったとき、「自分は日本のジプシーだ」と現地の言葉で言うと許してもらえると聞いたことがある。何かもの悲しい話だ。

 ジプシーの子供だからというわけではないだろうが、キース・ジャレットは、いずれ取り上げるつもりのヤン・ガルバレクのような北欧のジャズマンと競演したり、ドイツの修道院でバロック・オルガンの即興演奏をしたり、オーケストラと競演したり、活動は多種多様だ。私が好きなものもあればそうでないものもある。以前テレビで、グランドピアノを向かい合わせにおいて、チック・コリアと競演した番組を見たことがある。曲名は覚えていないが、たしかクラッシックの何かだと思う。そのときの演奏は、チック・コリアの方がうまかった。しかし、それはキース・ジャレットの魅力をなくさせるものではない。彼の魅力はその創造性にあるからだ。


 ある若者に出会った。風俗が好きな生真面目な若者だった。「風俗好き」と「生真面目」が両立可能であることを初めて知った。彼は昼間仕事をし、大学の二部に通う学生でもあった。苦学生というのは死語ではない。

 生真面目な風俗好きという点が気に入って、いろいろ話をするようになった。ある時、疲れ切った表情を浮かべている彼に、この「ケルンコンサート」を貸してみた。聴こうとしてはいけない。身をゆだねたまえ。

 後日、彼は友人とともにCDを返しに来た。「癒されました」。君は一生キース・ジャレットとつきあうことになってしまったね。しかし、このアルバムを聴いたらしいその友人のほうは、「ついていけなかった」ようだ。いいんだよ、いつかわかるときがくるからね。


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