Bill Evans with Toots Thielemans “I Do It For Your Love”(1979)

 ビル・エヴァンスなのだから、“Walz For Debby”となりそうだが、そうはならない。今回は変化球を投げる。それには、理由がある。つまり、「ネタ」がある。

 ずいぶん前のことだが、すっかり錆び付いたフランス語の錆び落としをしたいと思い立った。しかし、今さら、以前通っていた××フランセや○○学院に通うのも気が引ける。その頃の友人に相談すると、個人教授をしている人を紹介してもらうことができた。

 その人は、ニコラさんといって、スイスのフランス語圏の女性だった(経験上「ぱりじぇんぬ」だったら躊躇していた)。我が家からさほど遠くない2Kのアパートに日本人の彼氏と同棲していた。友人の話では、日本では考えられないくらいの金持ちの家の人らしいのだが、何か貧乏暮らしを楽しんでいるようだった。


 だんだんと錆がとれてくると、彼女は自分の家の話をしたり(とんでもない金持ちであることがその時わかった)、母国スイスの話をするようになった。私のほうは、日本や日本の文化についてたくさん質問されて答えなければならなくなった。これはかなり、かなりきつかったが、おもしろかった。日本人だからといって日本のことを全部知っているわけでも説明できるわけでもない。ガイド養成用のテキストを買って勉強した。なるほど、こうやって説明するんだと感心してばかりいた。

 ニコラさんのスイス話もおもしろかった。スイスは永世中立国だが、昔の社会党のように非武装中立をうたっているわけではもちろんない。国民皆兵制あっての中立国である。彼女の弟は、当時兵役についていて「自転車部隊」に配属されていたらしい。思わず笑ってしまったが、お国柄だ。

 スイスの直接民主制の実態やら治安の悪さの話も聞いた。以前スイスに立ち寄ったことがあるが、治安が悪いとは思わなかったので少し驚いた。もし本当にそうなら、故アンディー・フグのような格闘家を生み出したことは、うなずける。ブラジルもオランダも、治安の悪さが、強い格闘家を生み出す土壌になっている。

 命のやりとりになる場面に直面したり、直面する可能性のある環境なら、格闘技の技術の習得やその向上にはしるのは当然だし、格闘家の原点がストリート・ファイトの場合も多い。

 他の国々と比べてまだまだ治安のいい日本で、どんなにまじめに格闘技に取り組んでも、これはという格闘家はなかなか生まれない。しかし、治安の悪い場所が好きだったり自分たちで治安を悪くしている不良の中から、ボクシングの世界チャンピオンが出てきたりする。


 同棲相手に会ったとき、愛は国境を越え、容姿も超えるということを実感した。「え、なんでこの人とニコラさんが…」というのが、私の失礼な感想だった。彼は当時鍼灸の勉強をしており、免許をとったら一緒にスイスにもどるということだった。ニコラさんは、ハーモニカがとても上手だといつも彼のことを自慢していた。

 私は昔から他人に自分の好きな音楽を聴かせるのが好きだった。Junchanとつき合い始めたときもそうだし、このつたない文章もその延長上にある。むむ、ハーモニカがうまい、ハーモニカが好き、これはカセットを送らねば。それから、ニコラさんの分も考えねば。

 ニコラさんには、顔が似ているという理由で、当時出たばかりのエンヤを差し上げた。本当は「エンニャ」と発音するはずだと今でも思っているそのエンヤが、かなりたってから日本でコンサートをやるという話を聞いた。意味がわからなかった。来日してニュース・ステーションに出演したのを見て、理解できた。生エンヤが見られるだけ、というわけだ。

 ハーモニカのほうは少し迷った。リー・オスカーも考えた。いいにはいいが、長い間聴いてもらえる自信がなかった。そこで、ビル・エヴァンスの“Affinity”というアルバムを選んだ。業界用語としては「親和性」や「親和力」だが、「似かよっていて相性がいい」というような意味である。ビル・エヴァンスがこのアルバムで「相性がいい」と選んだのは、ハーモニカ界(?)の大物トゥーツ・シールマンズだった。

 このアルバムには、ヘンリー・マンシーニの「酒バラ」やミッシェル・ルグランの「真夜中の向こう側」も入っている。昔なら「コマーシャリズムに走った」なっていう批判が聞こえてきそうだ。資本主義の「後」がもはや考えられなくなった現代において、「コマーシャルズムに走った」という批判は、死語、いや、死文句だろう。

 “I Do It For Your Love”は、ポール・サイモンの曲らしい。「ピン」でやっているアルバムは一枚ももっていないので原曲は知らないが、そんなことはどうでもよい。ビル・エヴァンスといえば、その演奏の叙情性にみんな引きつけられる。“Walz For Debby”だって“My Foolish Heart”だって、みんなそうだ。“I Do It For Your Love”は、ピアノとハーモニカの絶妙なバランスによって、「叙情的」っていうのはこういうことなんだと教えてくれる。

 案の定、ものすごく気に入ってくれた。ニコラさんも素敵だを連発していた、フランス語で。そんなこんなで、かなり親しくなってきた。親しくなったら、我が家へご招待だ。


 Junchanは得意のキッシュを作ることになった。私は奮発してビワを用意することにした。食後にそのビワを出したら、「これは何」と聞くので、和仏辞典で調べておいた単語を言ったら、聞いたこともないし食べこともないとのことだった。おいしいい、おいしいとむしゃむしゃ食べていた。「値段が高い」とは言えなかった。

 猫は大丈夫と言っていたが、結局、ニコラさんはクレオパトラのような鼻(見たことはないが)をグジュグジュしていた。我が猫屋敷を甘く見ていたようだ。とはいえ、日本語と英語とフランス語か飛び交う楽しい集まりになった。


 ほどなくニコラさん達はスイスにもどった。錆を落としたはずの私のフランス語もまたすっかり錆び付いてしまった。我がパートナーは、ハングルを勉強している。私も一緒に始めたのだが、ハングル文字を文字として認識できたことですっかり満足して、停滞状態にある。去年6週連続でやっていた「アラビア語講座」を見て、アラビア語を文字として認識できるようなって満足したのと似ている。

 Junchanは、ハングルを勉強しつづけている。韓国に行く予定だったが、降ってわいいたような「……ブーム」という事態に直面して延期することにした。これについては何も言わない。いずれにせよ、結婚してから立てた「二人で10カ国語」という目標に一歩近づいたことは確かである。


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