ハングルのことわざをのぞく(十)

 韓国の宗教は何か? と聞かれたら、儒教と答えてしまうかもしれない。日本の宗教は何か? と尋ねたら、多くの日本人は仏教と答えるのではないだろうか? 分かっている人は、神道と言えるかもしれない。だが、質問自体が間違っている。韓国も日本も宗教国家ではないのだから。ましてや、儒教は韓国で生まれた宗教ではない。そして、私の中には「儒教は宗教か?」と言う疑問もある。

 韓国の信仰人口を見てみると、全体の半数強が何らかの宗教を信じており、その半数が仏教、半数がキリスト教(プロテスタント>カソリック)という内訳である。他には、朝鮮王朝末期の東学思想に基づく天道教、道教(風水地理が盛んなだけ)、シャーマニズム(女性によって深く信仰されている)、イスラム教・・・何れも有意の数にはならない。さて、儒教は・・・? これもまた信仰としては1%に満たないのだが、祖先崇拝や葬礼は儒式で生活に浸透しており、宗教として意識はされず、生活規範になっている。

 「儒教の影響が色濃く残る国、韓国は・・・」という表現をよく見聞きする。それは儒教が、確かに韓国の国教であったことがあるからである。紀元前に渡来した儒教ではあるが、7世紀新羅の時代に、先に国教になったのは仏教であった。儒教が国教とされたのは、李氏朝鮮王朝樹立の翌年1393年である。

 中国での儒教の教学的学派は、
1、原始儒教
2、漢唐訓詁楽
3、 宋明性理学(朱子学・陽明学)
4、清朝考証学        
と流れていったが、宋明性理学の中に、新儒教と呼ばれる、朱熹によって大成された朱子学がある。李氏朝鮮が受け入れたのは、正にこの朱子学だった。(道学、性理学、宋学とも呼ばれる)

 韓国人の人間関係や社会の仕組みを理解するための概念が、「理」と「気」である。これは、朱子学の概念で、「理」と「気」という原理をもって、この世を宇宙と把握する。
 「理」とは、天地万物の根源をなす秩序・法則性 (原理、論理、倫理、理念など)
 「気」とは、宇宙に充満するガス状の物質 (物質、身体、感情、感覚など)のことである。

 「理」の代表である「道徳」とはどんなものか? 儒教の実践道徳は、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信(五倫)仁、義、礼、智、信(五常)である。つまり「理」は、垂直思考ある。それに対して「気」は、水平思考だ。人間関係に於いては、「上下」の垂直的・「情」の水平的思考をする。こう言っても、よくわからない。平易な言葉にしてしまえば、「理屈」と「気持ち」、「建前」と「本音」ということになろうか。
 また、儒教は家族に対する正しい心・愛=孝悌を社会にひろげようという「仁」を核にした思想とも言われ、家庭主義的と言える。日常生活に於いて、日本では社会秩序が優先・重視される点で、大いに異なる。

 さて、言葉という視点から韓国社会を見てみよう。敬語を例にとると、日本では話す相手によって使い方が変わる相対敬語だが、韓国では自分より年上・目上の人に対しては、どんな場合であれ敬語を使う絶対敬語である。映画『火山高』でも、生徒たちは気に入らない校長にも「先生様」と言っていた。会社でも、「うちの社長様はお留守です。只今、いらっしゃいません。」と敬称を付けたりする。話す相手が誰であっても、「うちのお父様は・・・なさいます。」と身内でも「様」をつけて言う。そして、祖父母に自分の父母のことを話すときは、「父は・・・」と各付けが下がる。(将軍は、当然「将軍様」だ)
 敬語に対し、パンマルがある。(パン=半・マル=言葉) 日本語の「ため口」のようなものだ。親しい友人の間ではパンマルが使われるし、知り合って間もない友達にパンマルを駆使して親しさを表現することもある。

 語学を学ぶときに、誰でも?頭を悩ますのが、動詞などの活用や終結語尾の多様性である。ハングルを始めた頃、挨拶言葉一つ見ても、語学書によって似ているけれど違う文字が並んでいて、閉口したものだ。「こんにちは」に対して、アンニョンハシムニカ(形式張った表現)、アンニョンハセヨ(うちとけた表現)、アンニョン(ため口)と訳がいくつかある。形式張った表現が「理」系、うちとけた表現やため口が「気」系の言い方である。このように、日常の言葉の中にも「気」と「理」が存在する。韓国の社会生活は、こういった垂直・水平思考の中で営まれているわけだ。

*国王も老人をもてなす

*何事も主人がなすべきことである

*冷たい水にも上下がある

*割れ目の出来た石が割れ

*大牛大牛と言って馬草をやらぬ

BACK
PROVERBS
MAIN MENU
NEXT

copyright(c) ABE junko All Rights Reserved